第5回 W杯サッカー・日本VSポーランド戦
サッカーへの関心は国民平均レベルなのだが、この試合は自分を奮い立たせずにはいられなかった。日本が自ら負けることを選択した、あの試合である。
ワールドカップで、時間稼ぎで引き分けに持ち込む試合は多々あるだろうが、負けることを選択した試合は前代未聞かも・・と思ってTV観戦していた。
しかし前例はあった。知人が教えてくれた。
1982年スペイン大会での西ドイツ-オーストリア戦。旧西ドイツが前半10分にリードすると、どちらのチームも攻撃の意欲を示さず、試合は1-0のまま終了し、両チームは揃って次のラウンドへ進出したらしい。
前例はさておき、今回の試合で、敢えて負ける試合をしたことついて、会場に詰め掛けた観客、世界中のマスメディアからブーイングと批判の嵐である。
当然と言えば当然だろう。高いお金を払って会場に詰め掛けた観客や、世の中の損得勘定や忖度に悶々としている人々にとって、スポーツはそれらを超えた夢を与える存在であってほしいし、日常にはない感動を求めて観ているだろうから。
この試合で、いろんなことを考えた。
・結果を求めることがエンターテイメントとして成功するとは限らない
・プロスポーツにスポーツマン精神は求めるべきなのか?
・フェアプレイとは何なのか?
・スポーツは、結果を優先すべきか支援者の支持を優先すべきか?
最も考えさせられたのが、4つ目に近いが西野監督の選択である。
西野監督は今回「負ける選択」をした。全ての選手から理解された戦術でもなかろう。
たとえ1次リーグ突破できたとしても、戦術を批判される。
同時間試合中のもう一方の試合でセネガルが同点に追いつき、日本が1次リーグ敗退とれば、戦術だけでなく結果についても批判される。
それでも西野監督は、すべての結果を受け入れる覚悟を持ち、最も1次リーグ突破の可能性が高い戦術を選択した。
勇敢なサムライ、美しき敗者という賞賛よりも、泥臭い、汚い、感動もない、卑怯とさえ言われるだろう結果だけを優先する選択をした。
こう書くと西野監督は、悩みに悩んだ上の選択だったのだろうか?とも思いたいが、そうでもなかろう。
トップたるもの、第三者の目線を気にしての判断なんて、絶対ありえない。批判されることを考えた時点で失格だ。歩くとき、足を一歩前に出すくらいの判断(いや、感覚、いや、神経の動き)だったのだろう。
会社を経営していて思うのだが、ほとんどの人が「いいね」ということ、賛成大多数の事案は、ほとんど失敗に終わる。反対されることや、つまらないと言われることのほうが、不思議にも結果的には良かったということが多い。
経営は結果がすべてである。
西野監督の選択は「経営者」の姿勢に通じるものがありそうだ。
長友選手は、このポーランド戦を振り返り、Twitterで以下のようにつぶやいたらしい。
「這いつくばってでも上に行きたかった。惨敗したブラジルW杯から4年間、ロシアW杯で借りを返すためにやってきたプロセスに後悔はない。」
もし負ける戦術があだとなり、1次リーグ突破が実現していなかったとしても、長友選手は、退路を断った西野監督の判断を批判することなんて、決してないであろう。